早苗庵 知碩(さなえあん ちせき)
1814(文化11)年〜1901(明治34年)
本名は加藤多蔭(よしかげ)、俳句の宗匠(和歌・俳句などの師匠)で、通称吉重、雅号は麻麦園・長水処・早苗庵・多陰斎・蠖窟・蔵六舎・弘斎。山名郡中野村(現磐田市豊浜中野)に生まれる。
同郷の先輩、鳳嶺(ほうれい)(本名 加藤直吉)に誘われ、佐野郡山口村汐井川原(現掛川市東山口)の嵐牛(らんぎゅう)(本名 伊藤清左衛門、柿園(かきえん、しえん)・豊陰ともいう。松尾芭蕉の流れを汲む俳人)の門に学ぶ。嵐牛の指導を受けるために浅羽の里を通り抜け、小笠山の山際に沿って法多山(はったさん)の近くを通り、掛川に出て、逆流の流れに沿って汐井川原まで、およそ往復十二里(48キロ)の道のりを往来した。その翌日は、平常と変わらず家業の農業に支障なき就業ぶりだったという。江戸時代末期の遠江国代表俳人嵐牛(らんぎゅう)門下の四天王の一人となり、門人数百人を育てたといわれている。知碩の影響を受けた人々は、安間定吉(号、錦秋)、大石利七(号、稲里)、金原源八(号、寿松園、可仙)、鈴木円吉(庵号 豊秋庵、号 敬里)、河村和吉(号、成輝)、原田豊吉(号、渓水)、秋野貞次郎(号、湖洲)笹野井眼禪師(号、柳園・其悦)、溝口健次郎(号、棋園・至夕庵・可雄)、松本常吉(号、翠影)、野末重次郎(号、汀鴎)が、いる。
代表の句に、「日の入りの 大げしきなり 雲の嶺」(磐田市福田中野公民館前)
「月花の 遊びどころや この世界」(磐田市豊浜中野の西福寺)
「つくらばや 黄菊白菊 とりまぜて」(磐田市豊浜中野の白山神社の俳額)
「逃げて行く 岬の雨や 夏の月」(磐田市見付の見性寺)
【参考文献】
福田町史編集委員会『郷土の先覚者たち』 福田町教育委員会 1980年
秋野 湖州 『知碩発句集』 1991年
浅羽町史編さん委員会 『浅羽町史 通史編』 浅羽町 2001年
寺田 良毅 『遠州の俳諧』 静岡新聞社 2006年
『郷土の先覚者たち』より